ベーシックインカムの実証実験が2017年1月より始まり昨年末に終わりを迎えたフィンランド。この機会にベーシックインカムを今一度考え、実験の現状を見てみましょう。
日本でも話題になった「ベーシックインカム」ですが、一体これがどういうもので、どういう状況になっているかは日本のみならず他国のメディアでも誤った情報が飛び交う有様でした。日本では当初ベーシックインカムが施行されるという報道がありましたが実際には「実証実験が行われる」という内容が間違って伝えられたものですし、2018年4月頃には実証実験が途中で終了されるとの報道が海外メディアで報道されていましたが、実際には「当初の予定通り」2018年末まで実証実験が行われました。
ベーシックインカムとは
フィンランドのベーシックインカム(フィンランド語で「perustulo」)のアイデアは、社会保障の一つであり、全国民が一律無条件に非課税のお金を毎月もらえるというものです。
これだけ聞くと、「ただでお金がもらえるのか!なんて凄い!」と思われるかもしれませんが、医療費の一部を国が負担する国民健康保険や、医療費控除、児童手当、義務教育、年金、失業給付金なども同じく社会保障です。そしてその主な財源は税金となっています。
しかし、これらは皆、国と国民との間で交わされる社会契約の元に成り立っているものです。文脈に合わせて単純化して言えば、国民としての義務を果たせば国が国民を守る、という約束であり、程度や内容は異なっても近代の憲法はこのような国と国民の間の約束の上に成り立っています。これは日本でも同じことです。
なぜベーシックインカム?
さて、そんな社会保障の一部であるベーシックインカムですが、これが実証実験される背景には「労働」の形が変化しつつある現状があります。国が定めた最低限の生活を守るための社会保障システムは長い年月をかけて形作られてきたものですが、現在の労働形態や生き方には合わなくなっており、逆に社会保障の提供を阻害する状況になっているのです。
絶え間なく進む工業の自動化に、更にデジタル化も進む現在は、これまで多くの人を必要としていた労働で人手が必要なくなったりしています。更にフィンランドでは正社員が減り、パートタイムや期間契約で働かざる負えない状況に居る人々も増えてきています。それらに加えて、近年は特にギグ・エコノミーという単発や短期の仕事を請け負うという、終身雇用やパートよりも収入の不安定さの高い労働環境も増えています。
フィンランド国営放送YLEは、現在人口550万人ほどのフィンランドには「働く貧困層」
ワーキングプアが6万人いるとしています。そしてこのほかにもワーキングプアの統計に含まれていないものの同様に貧困の危機にある、ギグ・エコノミーで収入を得ると共に社会保障で不足を補う人々が10~40万人がいると報じています。
このように変化する労働の形に現状の社会福祉が対応しきれていないという問題が実証実験のひとつの背景にあります。そこで新たな社会保障モデルとして提案されているのがベーシックインカムなのです。
従来型の社会保障
フィンランドは学生手当、子育て手当、生活保護や失業手当なども充実している印象をお持ちの方も少なくないでしょう。
フィンランド社会福祉保健省は、「社会福祉保障の中心的役割は、弱い立場に居る人に支援を提供すること」にあるとしており、このような手当による所得保障でこれを実現しています。しかし現状では、これらの手当の条件は複雑であり、現在の働き方に合っていない面もあるのです。
例えば、失業支援金に含まれる基本失業手当は、一ヶ月約697ユーロとされています。しかし失業者がより積極的に労働するようにと最近導入された「アクティベーションモデル」により、65日間の期間内に最低18時間の労働をするか、個人事業主として241ユーロ稼ぐか、5日間雇用促進アクティビティに参加しないと減らされてしまいます。その一方、300ユーロを超えた収入は基本失業手当減額調整の対象となります。また、基本失業手当最大受給日数の400日間を超えた場合は、労働市場補助金という失業支援金を受けることになりますが、こちらも一月311ユーロ以上の収入があると減額されます。
失業手当とは別に家賃手当が支払われるという面もありますが、家賃や医療費を除く生活保護の基本受給金額が一人住まいでは月491ユーロであることを考えても月697ユーロというのはとても低いのも事実です。失業手当でもらえる金額が低いのは、より良い生活を目指すことが就労への意欲となるという面もあるでしょう。その一方で、この金額に満足して働かない人も存在したために導入されたアクティベーションモデルですが、そもそも失業状態で18時間の労働や241ユーロを稼ぐ仕事を見つけることが困難ですし、雇用促進アクティビティは田舎では用意されていない場合もあり、それを理由に手当が減額されるのでは失業状態にいる者を支援する制度としての意味が無いとも批判されています。
加えて現状の失業支援制度では、失業事務所の提案する仕事を受けないと失業支援金を受け取ることができなくなりますが…若い女性がトップレスバーでのウエイトレスの仕事を提案され、拒否したために支援金を受け取ることができないということもありました。
前述したYLEの報道でのワーキングプアの定義は一月の収入が1200ユーロ以下とされていますが、もし失業支援制度の対象となる人であれば収入が月に1200ユーロあったとしても(例えばパートやギグ・エコノミーなどからの収入)毎月230ユーロほどは失業支援金がもらえる状況となっています。しかし、自営業やフリーランスなどであれば失業状態と見なされないために1200ユーロの収入が合っても失業支援金がもらえないという変なことになっています。
もちろんこれらの手当を受給するには様々な書類を提出しなければいけませんし(提出はオンラインで済ませることができますが)、書類はKELAにより審査された後に決断が下されます。この審査は人の手により行われるのでもちろん間違えが起こる可能性もありますし、不服申し立てもできます。また手当を受けている間に収入があれば細かく計算され手当金額が減額されるなどの手間も受給者、KELAの双方に掛かるのです。つまり保障を受ける側にとってだけでなく、保障を与える側もそれぞれの受給者に対し複雑な審査を行うという手間を取らせることになります。
この例でも社会保障手当とその受給の複雑性、現代の労働形態に合わなくなり、逆に社会福祉保障の提供を阻害している状況が垣間見れるかと思います。それだけれなく、社会保障を受けることを恥と感じたり、提出書類の煩雑さや、そんなことをしている暇が無いなどで、生活保護や家賃手当などを受けていない人々がいるのも事実ですし、中には自分が受けるべき立場に居ると知らない人もいることでしょう。それらの人たちは社会の枠組みの中で弱い立場におり支援が提供されるべきとされる存在ですが、現在の制度では彼らに効率的に支援を提供することはできません。
また、2012年、2017年、そして昨年6月にも
欧州委員会から、フィンランドは失業支援金も生活保護の金額も欧州社会憲章に違反する低い金額となっており、改善が求められているということも忘れるべきではないでしょう。フィンランド外務省らは2015年、欧州委員会は複数の手当を組み合わせることができ、医療費の上限がある点を考慮しておらず、これは違反に当たらないと
反論していますが、そもそも複雑すぎる社会保障制度であることも問題でしょうし、反論後も欧州委員会から改善が求められている点には、このシステムには改善の余地があるということが現れているでしょう。
*なおこれらは記事執筆時点の情報であり、なおかつ簡略化して記しているものです。実際にはこのほかにも家賃手当などが別に存在し、それぞれの手当受給状況も金額に影響するほか、手当受給者が個人か家族かなどにより収入として換算される金額に下限もありますので、上記の例は引用には適しません。また、金額も毎年変更されます。正確な情報を知りたい方は
KELAのウェブサイトをご覧ください。
実証実験
そんな中、時代により変化する労働形態に合わせて従来型の社会保障を変化させ、これによりより人々が働きやすくなり、不安定な収入を持つ人も安心して暮らせるようにするために現れたのがベーシックインカムというわけです。
社会的に弱い立場にありながら様々な理由で保障を受けて来なかった、受けることが難しかった人々を残すことなく支援することができます。自営業にフリーランス、ギグ・エコノミーや0時間契約のパートなど、これまで失業支援を受け辛かった人にとって、安定した生活を保ちながら働きやすい状況をつくります。また、自分に合った仕事を探している人に取っては、安定した受け皿の元で様々な仕事に挑戦しやすくなるという点も興味深いことでしょう。そして支援を受ける側も、社会保険庁も共に審査に費やす労力を減らすことができます。もちろん、収入が多ければその分は所得税として納税されることでこれがまたベーシックインカムの財源となるわけです。また賛成派の意見としてはKELAの人材に掛かるコストを減らすことができるため、現行制度よりも安上がりになるともしています。
もちろんフィンランド国内でも皆が諸手でベーシックインカムに賛成というわけではありません。反対派の意見としては、現行制度よりも高く付くため税負担が高くなるという点も挙げられます。現在安定した仕事を持っている人が、仕事を辞めて働かなくなってしまう可能性が指摘されています。そうなればお金を多く稼いでいる人の税負担と共に不公平感も増すことでしょう。また、男女平等のフィンランドと言えども子育てに関して女性の参加の方が多い状況であり、ベーシックインカムにより主婦になる女性が増え、それが女性の社会的立場を弱くするのではという指摘もあります。生活保護では考慮される個人の貯蓄が現状のベーシックインカム案では考慮されないという点も問題視されています。
賛否両方の意見がある中2017年1月1日に始まった実験は、2018年12月31日まで行われました。実験にはフィンランド国民から25歳から58歳の人から2000人が選ばれ、一月に560ユーロがベーシックインカムとして支給されています。このベーシックインカムは所得税対象とはならず、この金額を考慮に入れず失業支援金なども同時に受けることができます。なおフィンランド国外に30日間以上滞在する際にはベーシックインカムが支払われなものの、帰国すればまたベーシックインカムを受け取ることができるようになっています。
実験の結果今回の実験が雇用に与えた影響は2019年末から2020年初め頃に発表される予定です。
果たして良い実験か?
実際のベーシックインカムのアイデアは、国民誰もが等しく国からお金をもらえるというものですが、今回の実験はといえば実験として有用な結果を出せるかどうか怪しいとの声も聞こえます。
その理由は、ベーシックインカムは仕事のある人も失業者も、富めるものも貧しいものも平等に与えられることこそがその根本であるのに、実証実験に選ばれた2000人は2016年末の時点でKELAから失業給付金をもらっている人たちの中からのみ選ばれているからです。
ベーシックインカムに対する批判意見として、「何もしなくてもお金をもらえるのだから人が働かなくなる」というものがありますが、そもそも実験対象が失業者だけであればこの批判に関連する比較が可能な対象は必然的にベーシックインカムの抽選から漏れた失業者のみとなります。つまり、普通に失業給付金をもらっている失業者と比べて、ベーシックインカムをもらっている失業状態のものはどれだけ就職に対する意欲があり、実験期間中に就職に向けてどう動いたか、だけを焦点とすることしかできません。
一方この批判意見に本当に答えるために行うべき実験は、現在仕事がある人がベーシックインカムをもらうことで仕事に対する意欲がどれだけ低下するか、仕事を辞めるかどうか、などもポイントとなるはずです。
また、今回の実験に対する批判としては、一ヶ月にもらえる金額が少なすぎるため、結局生活保護その他の社会保障も同時に受けなくてはならず、受給審査などの煩わしい部分が解消されていないという点も挙げられています。
その先
もしもベーシックインカムを実施しようという気があるのであれば、よりコンセプトに沿った形の実験が望まれるところでありますが、現在のところはベーシックインカムの更なる実証実験は予定されていません。ベーシックインカムが導入されるかどうかは別としても、手厚い社会保障で知られてきたフィンランドが今後どこまで時代に即した形で社会保障を変えていくことができるのかは多くの国々が注目をしているところでしょう。
まずは実験の結果を待ちたいところではありますが、ベーシックインカムの実験は
スイスでももうじき行われるようですし、カナダ、オランダ、アメリカなどでも注目を浴びています。
Source:
YLE,
STM,
Ihmisoikeusliitto,
YLE 2,
KELA
(
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